むらさき色とグレー

ノンセクシャルの灰色なアイデンティティをいろいろ考えてみる

アイデンティティを纏うということ

お久しぶりです、そふいです。

今日はアイデンティティ全般について。

セクシュアリティだけに限った話ではないので、今回は恋愛感情とは?といった話ではないです。

 

私は自分のアイデンティティをかたち作るものとして、少なくともデミセクシャル(かつてはノンセクシャル)とHSP※(Highly Sensitive Personの略)を自覚しています。

HSPは簡単に言うと、とても繊細で敏感な人、という感じです。音や光の刺激に敏感だったり、他人の感情に影響を受けやすい感じかな。最近、よく知られるようになってきましたよね。気になった方はぜひ「繊細さん」の本を読んでみてください!(今や私のバイブルです。笑)

私も刺激には敏感で、大きい音とかキツい香水の匂いが大嫌いだし、他人の感情に振り回されやすく、相手のなんてことない言葉や態度にグサッときて動揺することもしばしばです。

毎日ヘトヘトですが、刺激に敏感な分、HSPは日常のささいなことにも感動したり小さな幸せを見つけたりすることが得意です。なので音楽とか芸術に心をよく動かされて静かに感動してます。笑

 

でもささいなことで疲れやすいので、生きやすいか生きづらいかというと、やっぱり生きづらいんですよね。

 

自分のHSP的側面を知って、このままではいかん、なんとか楽に生きられるようになりたいと思ってTwitterでもHSPの人をフォローして情報収集するようになったのですが、ちょっとモヤモヤするようになって結局フォローを一旦ストップしました。

 

HSP特有のあるあるとかのつぶやきも多いのですが、HSPであることを名言することは、つまりHSPでない人との違いを明言することです。

HSPだからこういうことに気づく、HSPだからこういうことが大変だ・・・。

 

HSP=生きづらい、というイメージだけが先行して、HSPであるということを明言する人に嫌悪感を抱く人もいるようです。

そういう人にとっては、HSPであることを明言される=気を遣え、と言われているように感じるんでしょう。

 

HSPに限らず、アイデンティティを纏うということは、結局のところ、自分は相手とは違うことを明言することだと思います。

セクシュアリティも同じです。

 

最近こそ多様性が叫ばれるようになってきたし、そもそも同じ人間なんていないので、早く一人ひとりが自分のアイデンティティを気兼ねなく纏えるようになればいいな、なんて思っています。

 

なぜなら、「ノンセクシャル」とか「HSP」というワードは、自分のアイデンティティに名前をつけて安心させてくれるからです。

私がノンセクを自認した時は、どこにも属せないと思っていた自分に名前をつけることができて、本当に安心しました。自分も存在していいんだと思わせてくれる「名前」は本当に大事なものだったんです。

 

でも、私が同時に心配なのは、アイデンティティを纏うことによって、自分が相手と「違う」ことを突きつけて、あえて溝を深めること。相手の状況を考えずに自分のことを分かれ、と言っている感じでしょうか。

 

特にHSPがトレンドの今では、Twitterを見ていてその傾向を感じてモヤモヤしました。

アイデンティティは生きていく上で大事なものですが、他人と一緒に社会で生きている以上、扱いには気をつけないといけないのです。

 

アイデンティティは難しいトピックなので明確な答えもないのですが、私はそう思います。

 

私もHSPであることは自覚していますが、私の抱える生きづらさは結局のところ感じ方の問題であり私自身の問題なので、周りに変われというのは違います。自分で常に微調整して付き合っていかないといけないモノだと思っています。

 

そんなことを思った冬でした。